自分と死について

最近寝る前に養老孟司を聞くと落ち着く
動画作っている人がそのような演出をしているのもあるだろう

眠りで意識が落ちる時に、意識の話をしていて、興味深かった  

https://www.youtube.com/watch?v=doOaS29-dK8

- 自分とはなにか
意識とはナビの矢印のようなもの 
動物は動き周るから、世界の地図がないといけない 
動物なりの地図を持っている 

##浮遊した意識は世界を飛び回ることができる

もう一つナビに必要な物は現在地の矢印 
現在位置の矢印それが自分 

##これはホーム(帰るところ、自我と関連するか)ににている?

##現実の自分と妄想の自分があるということか 

##地図が世界(宇宙)で、矢印が自分か

自分がない人は 宇宙と自分が一体化する 
幽体離脱に近い
##自我が無い人は、社会人とも似ているか 
社会人でなくそれぞれが宇宙人であるべきだ。それぞれがそれぞれの地図をもち宇宙と向き合うのがよい 

ナビの矢印が自分、ナビの矢印が壊れたら、ナビ自体が自分になってしまう  

- 死について
意識はパッとなくなる 

「いい死に方」とかについては考えない 
仕方ない 注文出してもしょうがない 

死について現代の人は二つ誤解している 
・死ぬ瞬間があるという考え。そんなのはない。体はゆっくりだめになっていく 
→これは、死んだ父を見てもそう感じたな 

・死は自分のものではない 
死は客観的な出来事というより社会的な出来事
##主観的な出来事でなく客観的な出来事 だと思うが  

自分が死ぬということは、周りの人が影響を受けることを意味する

納得した終わり方はあるのか いつだってボンと終わってしまう 
納得しようがしまいがどこかでポンと終わる 

##ここで言っているのは、現実の死ということだろう。
自分がこれまで考えてきたのは 実存の詩観念としての死 だった。「死は人生の出来事ではない」(ヴィトゲンシュタイン)、「死への先駆」(ハイデガー)など。

 

養老孟司は死について「考えすぎるな」と言っているが、「全く考えるな」というわけでもないだろう。よき程度に死を考えるのがいいだろう。
全般的に養老孟司は、自分(意識、頭)より自然(体)重視ではある。自然と社会(常識、普通)は違うだろうが。 
作為が好きではないようだ。