インドでは男が元気

3月19日から4月5日にインドに行って感じたこと。
男は活発で元気なように感じた。

インド人はフレンドリーで、リキシャーに乗らないかとうるさく声をかけてきたり、単に日本人が珍しいのか話しかけたりされることが多かったが、それはほぼ男性からだった。
別に女性が寡黙で元気がないわけではない。電話で延々と話すお喋りな女性はよく見かけた。

インドでは男女の別をはっきりさせているのだろう。
たとえると、男子校と女子高で分かれ、文化が違う感じだ。
昔の日本のように、男は外(社会)、女は内(家庭)というのがはっきりしている。

対して今の日本は、男女同権の共学みたいで、文化的な違いはほぼなくなっている。
結果、女性に押され、男性が元気なくなっているように感じる。なにか去勢されてしまっているような。。。。

 

ちなみに、この違いは、ヒンディー教の2大神であるシヴァ神ヴィシュヌ神に象徴されているように感じる。
シヴァ神:創造と破壊の神→男性、ヴィシュヌ神:世界維持の神、慈愛の神→女性というように。
なので、ちょっとやそっとでは変らない、深く文化に根付いたものであるのかもしれない。

旅して感じた日本の閉塞感

タイ→UAE→トルコ→イスラエルと旅してきて全般的に感じたこと。

1)日本は、不必要な過剰品質のように感じる
海外では、車の運転は荒く、道路も雑然としている。
歩行者は赤信号で当然のように渡る。さすがに車は信号を守るが、ぐいぐい前にくる感じがある。
車間距離が近すぎるし、スピードも出す。
日本のドライバーは相当おとなしいほうだろう。

車は汚れ、傷ついているケースも多い。
クルマ本来の用を足せればいいと考えるのだろう。

日本は本質より、その上(表面)のキレイさ優美さで勝負しようとしているように感じる。
そもそもや本質は考えない、考えても無駄、空気で決まったところ(それこそ本質なのに)には触れず、それは当たり前として、その周りのエレガントさにこだわりがあるようで、はたから見ると馬鹿な努力をしているようにも思う。

海外では、役割分担がしっかりしている。
ゴミ箱があり、そのゴミを整理する清掃人がしっかりいる。
日本の町にゴミ箱はあまりなく、外でごみを捨てることをゆるされない非寛容な国だ。


2)海外は、「人それぞれ」で自由な感じがした

海外の人は、他人のことをあまり気にしていない。悪い意味でなく。
「バックのチャックが空いているよ」と親切に指摘してくれることもある。

人は人、というのがあるのだと思う。
自分は旅行者で当事者じゃないので、そう思うところもあるのだろうが、
日本だと電車で少し変なことをしても白い目で見られるところがあるが、
海外では変に目があったり気にし合う感じがない。
でも、まったく無関心なわけでなく、気軽に声かけてきたりもする。
やはり日本は空気が支配する国ということか。

日本は、本質は隠し、取り繕い、表面的には気にしていないようで、実際には気にしあい、ポイントのずれた過剰品質をする。
日本の閉塞感が少しわかるように思った。

戦争と共感力

ヒューマンエイジ 人間の時代 第2集 戦争 なぜ殺し合うのか - NHKスペシャル - NHK

 

人の共感力(オキシトシン)が自分たちとそれ以外の人の間に線を引く。そして仲間を守るために、それ以外の人に対する敵対心をもつにいたるため戦争が起こるという。
はじめに仲間以外に対する敵対心を持つのでなく、仲間を守るための結果として、敵対心を持たざるを得なくなるということ。

農耕以前、それ以外の人と出会わない限りにおいては、仲間しかいないわけで戦争は起こらなかった。そのときは、恐らく他人というより自然が外であり恐怖であり崇拝の対象、味方であり敵だったのだろう。 

要するに他人と出会ってしまったときに問題が起きるわけで、問題が起きるのは自然といえる。ヘーゲルのいう「承認をめぐる戦い」が起こるのだろう。 

これは戦争に限らず、さまざまなことにおいて、内(自)と外(他)に分けることで起こる問題。家族と家族以外、日本と日本以外、会社の派閥抗争とか。仲間意識は他を設定することでしか持てないだろうか。それではあまりに悲しい。

政治で考えるとわかりやすい。
自然発生的な愛国心というのもあるだろう。
しかし、権力者が愛国心をもたせるため、外に対する敵対心を持たせることで国をまとめようとすることはよくある。9.11後のショックドクトリンのように。

内と外の境界は絶対ではないということを知る必要がある。 
それが鈴木亮平一が最後に言っていた「線を引き直したり、線を増やしたりする」ということで、線は常に任意の線であるということだ。

共感力を内側、自分(たち)だけに発揮するのでなく、それ以外にも発揮する、自分たちと他人たちは同じだということを知る必要がある。

それには、任意でありつつも自分をしっかり設定し、自立していなければならない。
少なくとも 他人に線を引かせてはならない。
改変可能な線を自分で引けるように努力する必要がある。かなり大変なことだろうが。

本間真二郎は「自他の統合が人間の成長」と言っており、私が考える弁証法的成長とほぼ同じだ。 

線をつまり共感力を大きく広げていけるようになれば、自分が大きくなっていっているということだ。

いい線の引き方を目指したい。

自分と死について

最近寝る前に養老孟司を聞くと落ち着く
動画作っている人がそのような演出をしているのもあるだろう

眠りで意識が落ちる時に、意識の話をしていて、興味深かった  

https://www.youtube.com/watch?v=doOaS29-dK8

- 自分とはなにか
意識とはナビの矢印のようなもの 
動物は動き周るから、世界の地図がないといけない 
動物なりの地図を持っている 

##浮遊した意識は世界を飛び回ることができる

もう一つナビに必要な物は現在地の矢印 
現在位置の矢印それが自分 

##これはホーム(帰るところ、自我と関連するか)ににている?

##現実の自分と妄想の自分があるということか 

##地図が世界(宇宙)で、矢印が自分か

自分がない人は 宇宙と自分が一体化する 
幽体離脱に近い
##自我が無い人は、社会人とも似ているか 
社会人でなくそれぞれが宇宙人であるべきだ。それぞれがそれぞれの地図をもち宇宙と向き合うのがよい 

ナビの矢印が自分、ナビの矢印が壊れたら、ナビ自体が自分になってしまう  

- 死について
意識はパッとなくなる 

「いい死に方」とかについては考えない 
仕方ない 注文出してもしょうがない 

死について現代の人は二つ誤解している 
・死ぬ瞬間があるという考え。そんなのはない。体はゆっくりだめになっていく 
→これは、死んだ父を見てもそう感じたな 

・死は自分のものではない 
死は客観的な出来事というより社会的な出来事
##主観的な出来事でなく客観的な出来事 だと思うが  

自分が死ぬということは、周りの人が影響を受けることを意味する

納得した終わり方はあるのか いつだってボンと終わってしまう 
納得しようがしまいがどこかでポンと終わる 

##ここで言っているのは、現実の死ということだろう。
自分がこれまで考えてきたのは 実存の詩観念としての死 だった。「死は人生の出来事ではない」(ヴィトゲンシュタイン)、「死への先駆」(ハイデガー)など。

 

養老孟司は死について「考えすぎるな」と言っているが、「全く考えるな」というわけでもないだろう。よき程度に死を考えるのがいいだろう。
全般的に養老孟司は、自分(意識、頭)より自然(体)重視ではある。自然と社会(常識、普通)は違うだろうが。 
作為が好きではないようだ。 

モイツァ・エルトマン

ここ数年オペラ、歌曲が好き。 
心に響く歌声というのがあり、最初はナタリーデセイで、次は森麻季になったが、ここ二三ヶ月はモイツァ・エルトマンだ。

寝る前というか、眠りにおちる寸前まで聞いていると、とても心地よく吸い込まれるように眠れる。

これほど声フェチだというふうには、数年前までは思っていなかった。 

ナタリーデセイは好きで、昔から知っていたが、改めて好きになる時がある。
モーツアルトの「アルバのアスカーニョ」は名曲だ。

また別の人が好きになるかもしれないが、とにかく今はモイツァ・エルトマンだ

頭でっかちになるな2

後編の最後も良かった。

【公式】養老孟司 若い脳を保つ秘訣(後編)〜脳にはゴミが溜まる〜 - YouTube

やっぱり現代人だと思うのは、自分の調子も全部頭で考えてここはこういうふうにしたらいいっていうふうにして按配するという。それが本当はまずいんじゃないかと思う。猫は多分そんなことを考えていない。うろうろ動いて気持ちのいいところに行って寝ている。人もそれでいいのではないか、あちこち行ってみて、具合のいいとこを探して、で。

頭でっかちになるな

【公式】養老孟司 若い脳を保つ秘訣(前編)〜脳は感覚の刺激と関係している〜 - YouTube

 

養老孟司の動画の内容が心に響いたのでメモする。要はタイトルにつけたような内容なのだろうが、現代的な問題が潜んでいる。みんなそうなってしまったところが問題と言えるだろう。

 

以下、要約。

人間も自然なので 脳ではなく体が大事 

スマホやパソコン画面からは感覚が入ってこない 
感覚が大事 

外に出ると風がふくし、陽の光は時間によって動いていく 
感覚の刺激が入ってくる 

外へ出て気持ち良いという風になる時がある。ということはその前は気持ち悪かったということ 
だけどその気持ち悪い方の状態にいつもいようとする。それは頭で考えてやってるから。体の気持ちいいを重視できない 

スマホやパソコンの方が広く脳を使う 
しかし長時間同じ作業はできない 
年齢に応じて上手に使う必要がある 

スマホやパソコンは全部意識的なもの 
しかし意識は勝手なことをするので気をつけた方がいい 

白板に黒字で白と書くとみんな白と読む。動物だったら黒と読む。
人間は目から入った黒という刺激を無視できる。意識を優先させる  
それくらい意識は感覚に対して暴力的に振る舞える 
→ひどい副反応があってもワクチンを打ち続けるのも似ている

スマホやパソコンの世界は意識の世界。そこから出て別なものを入れるのを時々やった方がいい 

しかし今の建物はそういうふうになっていない。外に出られないようになっている 
→なるべく意識的に外に出るようにしよう。ご近所に会い挨拶しよう  
だから東京のオフィスビルは苦手。閉所恐怖症になるよう 

ものを筋書きで見てしまう。部屋に置いてあるものは意味がある
しかし外に出るとどうしてここに木が生えてるとか意味がないものが多い

自然の中に身をおく方が偏らない。自分の意識だけではない 

##ここの回答の辺り結構 感動した 
質問:最近の若者はスマホだけのコミュニケーションに偏っていると思うのですが 
電話も難しくなったと僕は解釈している 
その向こうにあるのは直に対面して話すということ
それはとんでもない、ということのようだ 
そうすると文字だけになる 
文字だけだと、正に意識の中だけで処理できる (←そのとおり)
余計な感覚が入ってこない (閉じているという先ほどの話につながってくる)
本人に会っちゃうといろんな別の情報が入ってきちゃう 
感覚情報、機嫌が良い悪いとか、それは不要な情報と判断される 
だから人がコンピューターのようになっちゃう 
その人の持っているシステムから落としちゃう排除する (クラスター、エコーチェンバーのような )
本人がノイズになる時代 

筋書き通りのものがおいてあれば 、れは許せるが、そうでないものがあると邪魔
そういうノイズを落として言って、動かそうとする 
スマートシティなんかもそれに近い 

それは頭の中の世界、おとぎ話の世界 
実際の世界はそうではない。 その間に大きなギャップを作っている。そこは自分で埋めるしかない (うめてもらいましょう、頑張って)

→想定、期待どうりにならないということがよく起こる。「想定の範囲内」と盛んに行っていた人がいたが、その人は電話嫌いだった 。
想定期待が裏切られる前提で、想定期待をすればいいのにと思う。そのことを楽しむ余裕 
人は動いて変わっていく しかし今は情報化で、情報の大きな特徴は変わらないということ 
そういう世界に居ると時間をとうして同じであると、いつのまにか思ってしまう 

0歳の自分と80歳の自分は全く違う。でも名前で同一性を保っている。それは本人のためではなく、周りの人のため (周りの期待に取り巻かれてしまう)